むしろ「空洞」が文章を決定づける

小川洋子のエッセイに、「輪郭と空洞」というものがあった。電車のなかで出会った少女の白いブラウスに見とれているうち、自分が見とれているのは糸によって形づくられたレース模様の輪郭なのか、レースの向こう側に透けている彼女の肌なのかわからなくなってしまった、というところから、文章においても人の心を突き動かすのは、果たして目に見える言葉なのかと思いを馳せる内容だ。

 レースの模様を決定づけているのは、材料の糸ではなく、糸の通っていない空洞の部分なのだ。つまりわたしは、見えないものを見ていたことになる。
 小説と関わっている時も、同じようなことが起こる。今わたしが心を突き動かされているのは、言葉そのものによってなのだろうか、その向こうに透けている、言葉にできない空間によってなのだろうかと、混乱に陥ることがある。
 小説を書いてゆくうえで、ある一つの言葉を選ぶということは、他の無数の言葉を捨てるということだ。ある一場面のその一瞬を表現するのに、どの言葉を用い、どの言葉を書き記さないでおくか、わたしはいつも選択を迫られている。ある時は無意識に、ある時は苦心して何かを選んでいる。選択の連続によって書く作業が進んでゆく。しょっちゅう、選び方を間違えてはいるのだが。
 選ばれた言葉たちは輪郭を作り出し、切り捨てられた言葉たちは空洞を生み出してゆく。この二つの作用は、レース模様の表と裏のように、優劣なくイコールで結ばれている気がする。空洞だからと言って、形あるものに劣るわけではない。

小川洋子『妖精が舞い下りる夜』角川書店,1993.7,P.15

たとえば文字のデザインにおいても、わたしたちは文字そのもの、つまり「黒い部分」をデザインするのだと思いがちだが、むしろ「白い部分/余白」をどう形づくるのかを考えるのだ、というお話を何人かの方から聞いたことがある。

目に見えない、形のないように見える部分にこそ、作り手/書き手の意思や息づかいが込められている。形として見える言葉の向こう側に、想像をかき立てずにいられない魅力的な「空洞」が透けて見えるような、豊穣な行間をもつ文章を書くことができたなら、と唸りながら、そこに在る文字の輪郭を確かめるように指でなぞった。

妖精が舞い下りる夜 (角川文庫)

妖精が舞い下りる夜 (角川文庫)