平野甲賀『僕の描き文字』

僕の描き文字

僕の描き文字

平野甲賀さんの『僕の描き文字』を読んだ。これまで数千冊の装丁を手がけてきた「描き文字師」平野甲賀さんが1970年代から2000年代にかけてさまざまな本で綴り、語り、対談してきた文章を詰め込んだ本だ。はっきりいって、いろんな文章の寄せ集めではある。しかしだからこそ、「文字」や「装丁」というものを多角的に考えられる一冊になっている。実に面白かった。

現在、わたしの関わっている雑誌はビジュアル先行のいわゆる「先割」のものが多いのだが、かつては「後割」、つまりテキストありきで誌面のレイアウトが組まれていく方法が主流だった、と平野さんは言う*1。そうしたなかでデザインを手がけてきた平野さんにとって、「テキスト」というものは「侵されざるもの」 *2であり、「書」は恐れ(畏怖というべきか)を抱く対象であり*3、「ぎりぎり表現を削っていくと残るもの」*4である。「一つの文字、一つの書体の背景には、喜劇あり、悲劇あり、時代の気分をあますことなくうつし出している」*5。そして、「文字が指し示すあらゆる事柄には、その形にいたる理由や意図が見えかくれしている。だからその形には描き手の生活と意見がいやおうなく反映される」*6という。それを描いていくのは、本当に苦しい作業だろう。表現とは、真摯に取り組むほど、身を削らずにはできないものとなる。そういえば、草森紳一氏との対談に「本当の『いい字』は、その人の肉体(心体)の写しです。漢字も言ってみれば、人間の内臓を模倣したものではないかと思うんですよ」*7という草森氏の言葉があった。書にしろ何にしろ、「表現する」ということは、時に自分の内臓を見せるかのような行為といえるかもしれない。

しかし、平野さんの文字は、デザインは強い。痛快だ。その強さは、劇団の宣伝美術を手がけているがゆえの「とりあえず客を入れりゃいいんだ」*8という思いに基づく潔さと、「僕は描き文字で行くことに決めたんだ」という至極シンプルでしかし揺らぎのない決意というものが根底にあることからきているのだと感じた。

平野さんは装丁の仕事において、作家や編集者を「共犯者」と呼ぶ。そんな言葉からも、いつだって文字で、装丁で、デザインで事件を起こしてやろうとたくらんでいる姿がうかがえる。

【関連】
*「描き文字考」川畑直道×平野甲賀 http://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography2/hk01/hk01_jyo1.htm

*1:実際のところ、わたしが関わっていた仕事もかつては後割が多かった。

*2:P.150

*3:P.136

*4:「本の装丁には、イラストレーションや写真を使ったり、いろいろな手だてがありますが、ぎりぎり表現を削っていくとどうなるか。そこには文字が残ります。たとえばフランスなんかに活字だけで色も赤と黒ぐらいでさらっとすごくしゃれた本がある。もちろんタイポグラファーという活字文字の使い手がいるから成立するんですけどね。もしそうはいかないとなると、あとは文字をおそれげもなく描くしかないと思ったんです。そうすると、読めない、こんなの字じゃない……と抵抗を受けたんですね。初期の頃はけんかの連続でした。いまや、文字を描かなくてはならないような使命感に燃えているようなところにきてしまいましたけど。」P.172-173「文字をめぐる冒険 石川九楊氏と対談」より

*5:P.224

*6:P.257

*7:「書とデザインの間 草森紳一氏と対談」P.143

*8:P.203「kouga HIRANO 対 shin SOBURE」祖父江慎さんとの対談より