「自分の顔さえ見ることなく、私たちは死んでしまう」

先月から読み続けていた佐治晴夫さん+松岡正剛さんの『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』をようやく読み終わりました。かなり読みごたえたっぷり、かつ、理系に振れている話題が多くてわたしの頭ではなかなか理解できない部分もあったのですが、読みながら付箋をペタペタと貼ったところを読み返してみると、やっぱり読んでよかったなあとしみじみ思います。響く言葉の連続。いろいろと印象深い話題があったけれども、そのなかの一つが、表題の「自分の顔さえ見ることなく、私たちは死んでしまう」、「あるものはあるもの以外からできている」というお話でした。

「私」は「私の顔」さえ知らない

佐治●(略)その話で私が思い出すのは、ゲーテの“光と影”です。「光だけではものを見ることはできなくて、影がなければ見ることはできない」と、ゲーテが書いているでしょう。相反する対極的なものがあって、初めて全体としてものが見えてくるということです。平たく言えば、善とは何かというと、悪があって善があるというように、対極的なものを一緒に考えないと見えてこないんですね。ですから落ち葉を描いているときに、落ち葉があるがゆえに落ち葉でないものが見えてくるというのは、きわめて物理学的な見方でもあるんです。(略)
(佐治晴夫+松岡正剛二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑雲母書房,1999.1 P.17)

佐治●私たちは、自分の顔は見られないではないですか。鏡に映る顔は虚像で、左右反対。相手をとおしてしか見えないんですよね。
松岡●そうですね。「私は私を記述できる。私は私についてしゃべれる」と思っているんですが、それが問題なんだと思いますね。私のことだから私がしゃべるんだろうと思っているんでしょうが、物理学ではそれは一切だめだと教えている。
佐治●そうなんですよ。自分の顔さえ見ることなく、私たちは死んでしまうわけです。「あなたに対してのあなた」というのが“私”なんですね。そこに私が確立するわけです。ようするに、私とあなたとか、私と外界の相互作用をするインタラクティブなものから、実は自分が見えてくる。でも子どもは直感的にそれを感じるんでしょうね。
(佐治晴夫+松岡正剛二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑雲母書房,1999.1 P.22)

「私」は「私」だけでは存在できないし、「私」が「私」を見ることも記述することもできません。なのに「私」というものが確固としてあると信じてしまうから、ややこしいことになるのでしょう。

松岡●“自己”というものがわれわれを邪魔しているというところで、ぼくはずっと闘い続けているところがあります。私の仕事は、「オンティッシュ=存在的なもの」と「オントロジック=存在学的なるもの」をつねに見つめようというところにあるんですが、ただ「自己というのは一つの束にすぎないんだ」と言っても世の中ではなかなか伝わらないんですよね。セルフというのはあるんだ、みんなが「私なんだ」と思ってしまっている。だからしょうがないので、「自己はたくさんあるんだ、複数あって複合的なんだ」と話すんですね。私、松岡正剛は体内にバクテリアも持っているし、場合によってはサナダムシももっているだろうし(笑)、とうてい一つの生命体ではないと話すと、ようやく伝わる。(中略)そうすると自己というものには社会的な自己、生物的な自己、記憶的な自己があって、多田富雄さんが言われていますが免疫的自己というものもあります。非自己というものを受け入れることによって自己をつくっていくんですね。つまり、自分と逆のものが来るとやっと自己が形成されてくるというものですね。そういうことで一〇〇ぐらいの自己があるんじゃないかと、最近は言い換えているんですけどね。
佐治●基本的には、幼稚園の子どもにもわかるような表現をとれば、「そのものは、そのものからできているのではなく、そのもの以外からできている」としか言いようがないんですよね。もうちょっと具体的に言えば、「この水は水でない水素と酸素からできています」と言えるでしょうし、あるいは一枚の紙は紙からできているのではなく、植物でできているのだし、その植物を育てるのは太陽の光であったり水であったりするわけなんです。(略)
(佐治晴夫+松岡正剛二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑l]』雲母書房,1999.1 P.27-28)

「自己」を“唯一の確固たるもの”と考えることが、わたしたちの邪魔をしている。「あるものは、あるもの以外からできている」つまり、「わたしはわたし以外のものからできている」。そして、「自己というのは一つの束に過ぎない」「自己はたくさんある」という松岡さんの言葉。それを読むと、かつてよく「どうしてわたしの興味はこんなにバラバラなんだろう」と思っていたことが、腑に落ちます。たくさんの自己があり、それぞれ違う自己なのだから、一人の人間のなかに一見散漫に思えるさまざまな興味が存在しても、矛盾しているような部分があっても当たり前なのかもしれない、と。

そして、3年前に折形デザイン研究所の山口信博さんにインタビューをしたときに、深く感銘を受けたお話を思い出しました。ずいぶん前の文章を引っ張り出してくるのはかっこわるいことかもしれませんが、あえてタイムカプセルを開けて引っぱりだしておきます。

すべてがつながる時がくる

今日取材でお会いした山口信博さんが、こんなお話をされました。

これまでさまざまなことに興味を抱いてやってきて、バラバラだと思っていたけれど、実はそれらはバラバラではなく、数珠のようにつながっていた。人生のあらゆる時点で行ってきたことが、つながる時がくるのだなあ、と。

ちょうどここのところ自分が考えていたこととまさに同じで、膝を打って同意してしまいました。

最近つくづく思うのは、これまで自分は一貫性のない志向でやってきたと思っていたけれど、実はすべてちゃんと「今」につながっているのだ、ということ。

絵が好きだった、文章を書くのが好きだった、民俗学やフィールドワーク、印刷物への興味、エディトリアルデザインへの憧れ…。気がつけば全部いまの仕事につながっている、とか。

いま、わたしは絵本にハマっているけれど、それは大学時代に興味を持った絵巻と、実はつながっている、とか。

高校時代に書いた将来の目標、苦し紛れに「ジャーナリストのようなもの」としたけど、着地点はそうひどく離れた場所でもなかったな、とか。

さんざん迷って模索して、時には迷走してきたと思っていたのに、30代になってふと振り返ると、全部ちゃんとつながっていた、そうぶれてなかったと思える、という不思議。

「その時々にやりたいと思ったことをやればいいんだよ」
人生のかなり先輩である山口さんは、そうおっしゃいました。
「人生で無駄なことは何もない」という言葉をまた、思い出しました。

20代の頃の迷いがなく、あの頃よりふてぶてしく。ああ、30代って楽しい!(2005年07月01日)

* * * *

自分が以前書いた文章を読んで、なんだか元気になってしまいました。お手軽だなあ(笑)
どんなに矛盾しているように感じても、自己は一つではないのだからそう悩むことはないし、けれどもそれを束ねている自分の心に正直に従っていれば、きっといつかすべての点が線となっていくのだということなのでしょうね。

二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑

二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑