道を切り開きたいのであれば、ぶつかるところまで行くほかない

夏目漱石『私の個人主義』を読んだ。この本には漱石の講演がいくつか所収されているが、表題の「私の個人主義」を読んで唸る。記録を見れば大正3(1914)年11月の講演だから、実に90年以上前に話された内容だというのに、いまなおこれだけ示唆に富んでいるというのは凄まじい。

私の個人主義 (講談社学術文庫)

私の個人主義 (講談社学術文庫)

漱石は順風満帆に「英文学者」という自分の道を見つけたわけではなかった。話はそこから始まる。
帝国大学卒業を間近に控えた漱石は、迂闊にも就職のことを考えていなかったことに気がつく。知人が学習院の英語教師に推薦してくれ、すっかりその職に就くつもりでいたら、落ちてしまう。東京高等師範学校の英語教師になるも、「どうも窮屈で恐れ入り」、松山の中学へ赴任する。しかしそこもたった一年で去ることになる。やがて熊本の高等学校を経て、文部省に命じられイギリスへ留学。しかし「三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです」。漱石の煩悶たるや、想像に難くない。

彼は、西洋人が「いい」というものを「いい」と思えない自分に悩んでいた。自分自身がそう思わなければ、到底それを受け売りすべきでないと。それでも英文学を先行しようとする、日本人の自分。本場の批評家の意見と自分の意見に矛盾があるのは、風俗、人情、習慣、国民性所以なのだ――。そう悟ってからの漱石は、

文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。

「そう西洋人ぶらなくてもよい」、自己本位で行くのだと悟った時にはじめて、漱石の不安はまったく消え、心が軽快になったのだという。「多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てがような気がした」「明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた」と。

確かに握った自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。

それからの漱石は、年を経るほどに揺らぎない自分自身を持つことができたそうだ。

ここで漱石は、聴衆に向かい、道を切り開きたいのであれば「どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくっては行けないでしょう」「もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏みつぶすまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに打(ぶ)つかる所まで行くより外に仕方がないのです」と繰り返し言う。それは、こうした理由だという。

何故それが幸福と安心をもたらすかというと、貴方方が有(も)って生れた個性がそこに打(ぶ)つかって始めて腰がすわるからでしょう。そうしてそこに尻を落付けて漸々前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めていい得るのでしょう。

この文章を読みながら、恩師がかつて「結果を出すのは簡単なのよ。コツコツとやりさえすればいい、あきらめさえしなければいいのだから」、そして「なんでもしつこくなくちゃダメなのよ。やったことは手放しちゃダメなのよ!」と語っていたことを思い出した。なりふりかまわなくてもいい、野暮に見える情熱でもかまわない。鉱脈と思えるところにぶつかったその時、始めてスタートラインに立つことができるのだ。