たからもの

すっかり更新できない日々が続いています。
いや、更新できないのではない。その時間すら取れないというわけではない。ただ、書けないのです。余裕のないということは、心や生活を荒ませます。よくない兆候です。

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幸田文の『雀の手帖』というエッセイ集を読んでいます。
1本2ページというごく短い文章のなかで、なにげない日常を描く彼女の視線に、くらしを慈しむ心のありようを感じて、余裕をなくしていたこのごろの自分をよくよく感じました。

たとえば「丁寧な暮し」に思いを馳せて、彼女はこんなことを書いています。

 心ざまを丁寧にすることは時間を食う、と思っているのが思いちがいのようだ。不熟練な人が丁寧なしごとをしようとすれば、むろん時間を食うし、熟練の人でも丁寧にすれば、やはりしごとは時間を食う。しかし、しごとと気持とは違う。つねに丁寧な心ざまでいることに特別な時間はいらない。丁寧な気持で対(むか)えば、お味噌汁一ツにも手応えが出るし、毎あさ使うヘアブラシにも心の沢(つや)はつく。とぱすぱしないように心がけていると、どことなく心に量感がある。
(中略)
 一ト月をふりかえって何の目ぼしいことはなくとも、桜草一ト鉢、毎日気をつけて眺めたいなあと思うとき、ちょっぴり一カ月の丁寧さが楽しめる。

幸田文「節分」『雀の手帖新潮文庫,1997.11,P.26-27/初出 新潮社,1995.12)

「つねに丁寧な心ざまでいることに特別な時間はいらない。」
いまの自分にその一文は、ことのほか響きました。
ていねいさを楽しみたい。

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取材に行っていろんな話をきくのは嬉しいのである。

「象」という一文は、こんな書き出しで始まります。

ああ、とてもよくわかる。
ライターという仕事をしていて一番楽しいのは、なんといっても取材なのです。じかに会い、その人の体験や考えを聞く。仕事を見せてもらう。今日は良いものを見た、良い話を聞けた、これをどう伝えよう。そう考えているときがとっても楽しい。

「書いた」おかげである。下手でも不出来でも、才だの素養だのがどうあっても、そんなことよりとにかくつとめて「書いた」のがきっかけで、取材に行くなどという楽しい御褒美がもらえたとおもう。

幸田文「象」『雀の手帖新潮文庫,1997.11,P.124/初出 新潮社,1995.12)

良いものを見た、良い話を聞けた、そのときのわくわくした気持ちは、いざ原稿を書き始めると途端に苦しみに変わります。わくわくしたまま書き上げられることは、わたしの場合少ない。最初のひと文字を形にした瞬間から、あの「良いもの」と自分の文章との差に苦しみ続けます。

それでも、とにかく「書く」、形にしていく。それがわたしの仕事として残っていく。

そして彼女はこう締めくくる。

実際を話してもらうのは宝である。

幸田文のプロとしての凛とした決意を感じ、自分がこの仕事から宝ものをもらっていることをしみじみと思い。背筋が伸びつつ、ふける夜です。