ていねいに、生きる。

きのう「余裕のないということは、心や生活を荒ませます。」などと書いたけれど、「忙しいから余裕がない」とは言いたくないのです。なんだかわがままですね。

「忙しい」は「心を亡くす」と書く。
でも、忙しいぐらいに任せていただける仕事があるということは、とてもうれしいことなのです。そんなうれしいことで心を亡くしていてはいけません。

「忙しいから余裕がない」のではなく、仕事にしろ私生活にしろ、どのような状態であっても余裕をなくさないでいられるような芯の強さをもちたい。どんなときにも「ていねいなくらし」を心がけることは、揺らがない芯をつくることへの道筋のひとつのようにも思えるのです。

さかのぼること3年前、2006年がはじまる時に、「ていねいに、生きよう。」という目標を立てました。きっかけは一冊の本でした。

新年明けて早々に読み終えた2006年最初の1冊がこの本だった。
博士の愛した数式小川洋子

なんという話を小川洋子は書いたんだろうか。少女のような彼女の風貌を思い浮かべると、いっそう凄みを増すように思える。

「ぼくの記憶は80分しかもたない」博士の背広の袖には、そう書かれた古いメモが留められていた。事故によって記憶力に損傷を負った博士にとって、主人公は常に「初対面の新しい家政婦」。思い出を重ねようのない博士、そこに通う家政婦、そして彼女の10歳の息子の間にあたたかな交流を生み出したのは、博士が愛してやまない「数学」なのだった……。

小川洋子の作品からは、いつも“静謐な世界”を感じる。しかし本作が従来作と決定的に違うのは、これまでの作品は日常に潜む毒や残酷性……冷蔵庫の中に冷え冷えとした悪魔が潜んでいるような……そういったものを感じさせるひんやりとした世界であったのに対し、この作品はあたたかな静けさに包まれているということだ。「記憶が80分しかもたない」という設定そのものにこれ以上ない残酷性を孕みながらもなお、大きな慈愛がすべてを包み込んでいる。物語に出てくる人は皆、やさしい。互いを慈しみ、尊敬し、尊重して、これ以上なく心を配る。

数学が大の苦手科目だったわたしには、博士の説く数式は半分も理解できない。しかしその美しさだけは伝わってくる。これまでとても冷たくよそよそしい顔をした存在でしかなかった数字を、あたたかなものに感じることがあるなんて、想像したこともなかった。まさか自分が、数学の美しさに感嘆のため息をもらすことがあるなんて。

物語が終盤にさしかかるにつれ、涙が流れて止まらなくなった。読み終えた後は静かな感動が胸の内にあふれかえり、そのスペースを別のもので満たすのがためらわれて、一切のインプットを停止したい衝動に駆られるほどだった。「記憶を積み重ねられることの尊さ」をただ痛感した。この本を読んだからには、2006年の目標は「ていねいに、生きよう」というそれ以外にはなりえないと思った。2006年の一番はじめに読了した本がこの作品であることを、とてつもなくうれしく思う。

「ていねいに、生きよう」。記憶に刻み込まれる出来事も、忘れゆくかもしれない些細な出来事も、じゅうぶんに慈しみながら。

* * * * *

そんなわけで、2006年、心に刻んでゆくことは、「ていねいに、生きよう」にしようと思う。
プライベートでは、子どもたちの心にいつも添ってあげられるように、ていねいに接する。楽しい時間を持てるように、ていねいに時を過ごす。季節感をじゅうぶんに感じられるように、年中行事をていねいに行なう。
仕事面でも、何事もていねいに。昨年、とある仕事でこう痛感している。

心に刻め。
怠惰は敵だ。
楽していいものが作れると思うな。

ま、いっか禁止令。

ことに仕事において、「ま、いっか」はすべての敵だ(私生活では時により「ま、いっか」が必要なこともある)。その言葉が口をついて出そうになった時、本当にそれでいいのか、踏みとどまれるように、あらためて掲げたい。「ま、いっか禁止令」。

(2006年1月8日記)

「ていねいに、生きよう。」という目標はその後2007年、2008年も引き続き掲げ、これはおそらく自分にとって永遠のテーマとなるに違いないと悟って、いつも忘れずにいたいテーマとして殿堂入り。2009年は「形にする」という新たな目標を掲げたのです。

でも、近頃そのことが心のなかで薄らいでしまっていたかもしれない、と幸田文のエッセイを読んでいて思い至ったのです。昨日の記事を書きながら、心でこだまし続けていたのは、「ていねいに、生きよう。」というそのひとことでありました。