一人の人間とその時代を自分の力で学び取る以外に、歴史を学ぶ方法はない。

ふとしたきっかけで、朗文堂が1995〜1999年にかけて刊行していた小冊子文字百景 全100冊を入手した。そのなかの一冊、河野三男さんがスタンリー・モリスン*1について書かれたシリーズの冒頭にあった文章に強く引き寄せられて、その部分を何度も読み返した。

  歴史とは、無数の「私」が何処かへ飛び去った形骸である。

 かつて小林秀雄がそのように書いたとき、そこには要約しようのない人生を生きた一人一人の「私」に対する、うかがい知れない思いがあったのかもしれません。また、己の生と時間との濃淡織りなす交わりを、簡単に要約されかねない危機感、つまり要約を拒否する自意識の抗し難い思いを、汲み取ることもできるかもしれません。歴史に学ぶとは、歴史を振り返るとは、出来合いの記述を鵜呑みにすることではなく、一人の人間とその時代を、自分の力で学び取る以外には理解のしようがない、と観念することなのでしょう。沈黙の中で過去の出来事に正対せねばならないはずです。過去を都合よく忘れることは無縁です。歴史作家や伝記作家は、ある人物の一生を記述するという困難な仕事に挑みます。要約することなく何とか語りつくし、残したいという衝動に駆られて書き綴るのでしょう。要約することによってこぼれてしまう何かを描き出すゆえに、判明しうる事実の細部を執拗に語ります。事象と事象との間隙のほころびは、作家の解釈による想像力が縫い合わせていくのでしょう。

(「文字百景019 スタンリー・モリスン 黒光りの足跡ーーその一」河野三男,朗文堂,1996.06,P.01より)

歴史について調べていると、過去の文献を読んだだけで「知った気」になってしまうことがある。もちろん、文献を読むところからすべては始まるのだけれど、最終的にその歴史が本当に「自分のなかに入った」と感じるのは、対象が「顔の見える歴史」ーーとりわけ「一人の顔が見える歴史」になったときだ。それがつまり、<出来合いの記述を鵜呑みにする>のではなく<一人の人間とその時代を、自分の力で学び取>るということなのかなと思った。

そして、<要約しようのない人生>と<己の生と時間との濃淡織りなす交わりを、簡単に要約されかねない危機感>という言葉が重くのしかかった。ある人物の一生を記述するという困難な仕事に挑むことが、わたしにもある。けれどそれはたいていの場合、雑誌という紙幅のかなり限られた場でのことだ。確かにわたしは<要約することなく何とか語りつくし、残したいという衝動に駆られて書き綴る>、けれども与えられた場のなかでは要約せざるをえず、そのことにいつも苦しむ。

その人物の<要約しようのない人生>のなかで、なにを書き、なにを書かないのか。取捨選択はとても苦しい作業だ。

しかし、苦しくて当たり前であることもまた、よくわかっている。要約しようのない一人の人生を、あえてそこからなにかをこぼしながら、限られた紙面に刻もうとする仕事なのだから。

「先へ進むことは、過去へ踏み込むことだ」ーースタンリー・モリスン

(「文字百景021 スタンリー・モリスン 黒光りの足跡ーーその三」河野三男,朗文堂,1996.06,P.48より)

「Quia vidi credidi(私は見た。それゆえ信じる)」ーートーマス・アクィナス

(モリスンの墓石には、上のトーマス・アクィナスの言葉が、ラテン語で刻まれている)

(「文字百景021 スタンリー・モリスン 黒光りの足跡ーーその三」河野三男,朗文堂,1996.06,P.53より)

*1:スタンリー・モリスン http://ci.nii.ac.jp/naid/110003825283/