「手を動かす」ことの効果


火曜日に放映されていた「プロフェッショナル 仕事の流儀」のなかで、宮崎駿監督は映画のアイデアが浮かんだとき、それをふくらませ育てるために、まずは自分の描きたい場面をひたすらにイメージボードに描いていくのだと言っていた。頭で考える前に、まずは手を動かす。するとそこからイマジネーションが喚起されていく。

自分が文章を書くときのことを思い起こしながら、その場面を眺めていた。わたしが取材原稿を書く時の手順はだいたい決まっていて、まず音声をざっと起こし、その文章を必ずプリントアウトして読む。読みながら、トピックごとに見出しを入れたり、ポイント部に赤線を引いたり、さらに大事な言葉や文章は余白部分に赤ペンで書き出していく。そうやって手を動かしているうちにだんだんと内圧が高まってきて、あるとき「ふっ」と書き出しの文章が降りてくる。その勢いのまま原稿を書いてしまうこともあるし、長めのものや複雑な構成の場合は、別の紙にプロットを書きだしていく。これも手書き。文章を書くための流れのなかで、この「手を動かす」過程を省くことだけは決してできない。

石川九楊さんは「書く」という行為の核を成すものとして「筆蝕」という言葉を用いている。

「書く」ことと「話す」ことを分けるもの、それは<筆蝕>つまり、書き手が手に握った尖筆の尖端と被書字物である紙とのあいだの摩擦ーー<蝕>と、その残された痕跡ーー<蝕>である。言葉を話すときには<筆蝕>は存在しない。<筆蝕の有無>ーーこれが書くことと話すことを分ける境界である。この<筆蝕>の問題に入り込まないかぎりは、「書く」ことの本質には届かない。
石川九楊筆蝕の構造―書くことの現象学筑摩書房,1992/07,P.49

 紙をインキでけがし、石を刻って出来た痕跡を<蝕>と呼ぶなら、書くことは触れること、つまり<触>と蝕むこと<蝕>の過程を本質とすると言っていい。その<触>と<蝕>の結果的痕跡が筆跡であり、墨跡であり、刻跡である。そしてこうした<痕跡>を生み出す<触>と<蝕>の全課程をここでは<筆蝕>と呼んでいる。
石川九楊筆蝕の構造―書くことの現象学筑摩書房,1992/07,P.52

氏曰く、「ワープロやパソコン作文もまた<筆蝕>の不在という点から、明らかに「話す」領域の文章に属する」。だから彼はパソコンによる文章作成に否定的だ。わたしはいまもこうしてパソコンに向かって文章を書いているように、基本的にはパソコンによって文章を書き上げる。けれども石川氏の主張をうなずきつつ読むのは、「筆蝕」不在であったなら、自分は文章を書くためのインスピレーションを得ることができないと思うからだ。

 生理学的に言っても、「手は外部の脳」(久保田競)であり、「中枢は末梢の奴隷」(養老孟司)である。尖筆の尖端から伝えられる不思議な行動する触覚<触>と、視覚的痕跡<蝕>との有機的連合に<筆蝕>は誕生する。
石川九楊筆蝕の構造―書くことの現象学筑摩書房,1992/07,P.58

「書き始め」が降りてくるのが決まって手を動かしている時だということに気がついたのは、これらの文章を読んでからだった。気がついてからは、なにも降りてこない時にはとにかくまず手を動かそうと確信を持って思えるようになった。

手を動かすという行為には、イマジネーションを喚起する働きがある。だから、まずは手を動かさなくっちゃ。……なにも降りてこないからといって、現実逃避でこうしていくら文章を打っていたって、執筆の神様は降りてなんてこないのである。

※写真は本文とは無関係です。少し前に撮影した空。ピンク色の世界。

筆蝕の構造―書くことの現象学 (ちくま学芸文庫)

筆蝕の構造―書くことの現象学 (ちくま学芸文庫)