とれなければ、焼きつけるしかない。
ナガオカケンメイさんが企画している展覧会「デザイン物産展ニッポン」の準備が大詰めを迎えているようだ。日記を拝見しながら、今度はどんな喧嘩をしかけてくれるんだろうとわくわくしている。
7月30日の日記でナガオカさんは、「展覧会の体温」という話をしている。
展覧会の体温。そんなものがある。その体温はひとりの体温なのか、複数の体温なのか。そんなことがある。
http://web.d-department.jp/blog/2008/07/post_475.html
そして企画者の「伝えたい」をいかにして伝えるか、体験を紐解きつつ考察しているのだが、その例の一つとして挙げられているのがイサム・ノグチ庭園美術館を観た時の話だった。イサム・ノグチ庭園美術館は完全予約制で、予約者は決められた時間に木造の小屋に集まるらしい。そして、集合場所である小屋の中は自由に撮影をしてもよいが、一歩外に出てからは「一切撮影禁止」とガイドに言い渡されるのだそうだ。
これもいい。絶対に撮るな。と言われて、そのガイドと一緒に外にでる。撮れないということが、こんなに新鮮な気持ちをつくってくれるかに関心した。とにかく、「撮りたい」と思える風景や彫刻が広がる。「撮りたい」のだが撮れない。そのうち「どうしても撮りたい」ものがあらわれる。しかし、撮れないのだから、目と脳に焼き付けるしかない。
http://web.d-department.jp/blog/2008/07/post_475.html
この部分を読んで、「撮れる(録れる)」ことの弊害を思う。
デジカメを持つようになり、枚数をあまり気にすることなく写真を撮れるようになった。携帯電話のカメラの性能が上がり、カメラを忘れても、たいていの場合は写真を撮ることができる。撮りたいと思った時にいつでも撮れる、すると、「撮る」ことに気を取られカメラを通してばかり対象を見て、自分の目で見ることをおろそかにしてしまいがち。気がつくと、記録として写真は残っているけれど、自分の目で観た記憶はほとんど残っていないという事態に陥る*1。人の話を聞く時も、「録っている」と思うと記憶への焼き付け方が甘くなることがある*2。
「撮れない」けれど「どうしても撮りたい」、しかし「撮れないのだから、目と脳に焼き付けるしかない」。この状態に陥ったとき、焼き付けたものは、きっといつまでも忘れない。強く深く焼き付けられる。
経験があるのだ。小学生の時、チケットをもらったかなにかで、友だちと一緒に印象派の展覧会を観に行った。ほとんど美術館鑑賞経験のなかったころで、その展覧会が「印象派」をテーマにしているということも、「印象派」がなにかということもよくわかっていなかったように思う。
けれども絵を描くのは好きだったので、それなりに感じるところはあった。いくつかの絵のなかで、「きれいだな」と思った絵があった。メモも持っていなかったし、小学生だから図録を買うお金もない。そもそも図録なんていうものの存在も知らなかった。それで、ずーっとその絵を見ながらぶつぶつと作家の名前を繰り返し、懸命に覚えて帰った。
いまでもその名前を覚えている。25年くらい前のことなのに。そして、いまや読んだ本の内容もすぐに忘れてしまうようなザル頭なのに*3。作家の名前はポール・シニャック。オランダのフリシンゲン湾を描いた作品だった*4。
「記録したいけど記録できない。しかし決して忘れたくはない」そういう状況に生み出される真剣さを、もっと大切にしたいと思った。*5
* * * *
ナガオカさんが日記の締めくくりで書いていた言葉。
人はそう簡単に感動などしない。まして、用意された企画展の中に潜む「企画者の意図、いちばん言いたい事」など、簡単には読み取ってはくれない。
http://web.d-department.jp/blog/2008/07/post_475.html
見た人、それぞれの感じたことでいいんですよ、という企画者はいるが、それは嘘だと思う。企画した側は間違いなく「これをこう感じてほしい」というポイントを持っている。いい企画展は、それが押しつけでなく見る側に分からせることができているものではないかと思う。
規模にまるで違いはあるが、展覧会制作に携わるものとして*6、覚えておきたい。