人間は、この世に生まれたその瞬間から、この世に受けいれられることを目指して生きている。

しりあがり寿さんの『表現したい人のためのマンガ入門』を読んだ。マンガ家とサラリーマン*1という二足のわらじを13年間はき続けた経験があるしりあがりさんだからこそ書ける本だった。

「マンガ入門」というタイトルだけれど、しりあがり先生が手取り足取りマンガの描き方を教えてくれる本ではまるでない。これを読んでも、マンガを描くのに必要な道具も技術もなにもわからない。けれどももっと大切な、マンガに限らず「表現して生きていく」ための考え方が詰まっている。

しりあがりさんは、何かを表現して生きていくことの一番の楽しさを、こんなふうに繰り返し言っている。

 人間はもともと、何かのために生まれるものではありません。何かの職業につくとか、何かの使命を果たすとか、生まれながらにして決まっていることは何もない。ただし、あえて生まれてきた目的はといえば、生まれたこの世界に受けいれられること、それ自体じゃないでしょうか。
 自分を表現しながら生きるということは、作品というモノを間においた間接的なものであれ、何かを書き、それが読まれることで、この世界に受けいれられつつ生きているということです。
しりあがり寿表現したい人のためのマンガ入門講談社現代新書,2006.7)P.10-11

表現することの楽しさは、自分が世の中に受けいれられている実感を持てることである、と。それを単なる夢としてほんわか語るのではなくて、そうして生きていくためには「売れる」ことが不可欠なのだということに言及し、表現しながら生きていく=売れるために必要なことについて話していく。

たとえば、マンガには「作品」と「商品」の二つの側面があるとし、「作品」と「商品」を明確に区別して、こう定義する。

(略)ボクはその違いを「良し悪しを誰が評価するか」によって分けてます。「作品」はもちろん、ナントカ協会の賞とかいろいろありますが、あくまでその評価は「自分」、つまり作者本人が下すものだと思っています。(略)
 では「商品」を評価するのは誰でしょう。それが市場であり、マンガの場合は読者です。
しりあがり寿表現したい人のためのマンガ入門講談社現代新書,2006.7)P.25

さらに、「商品」をコントロールするのがマネージャーであり、「作品」をつくり出すのが「クリエイター」であるとして、モノを作っていくにはその二種類の人間が必要だと言う。

ボクの場合、後の章でも述べますが、自分の中に「しりあがり寿」という作家と「しりあがり寿」を担当しているマネージャーがいます。作家である「しりあがり寿」は、いつどこでどんなことを考え出すかわからない、ヘンテコな「ケダモノ」であり、それを担当するマネージャーは、そんなヤヤコシイ「ケダモノ」を担当する「調教師」、あるいは飼いならす「オリ」といったところでしょうか。
しりあがり寿表現したい人のためのマンガ入門講談社現代新書,2006.7)P.27

そうして、すべての創造の源である「ケダモノ」が市場に受けいれられていくために、調教師はどうすればよいのか……、自分という商品のブランディングについてわかりやすく説明してくれるのだ。たとえば、こんなふうだ。

ブランドイメージは、良い作品を描き続けることで、だんだん高くなっていく。言ってみれば、個々の作品で勝ち取った信頼感の倉庫みたいなものですね。だからヘボな作品を描くと、ブランドイメージの倉庫から信頼感を持ち出さなければいけない。要するに信頼感が減っちゃうわけです。
しりあがり寿表現したい人のためのマンガ入門講談社現代新書,2006.7)P.154

さすがはキリンビールのもと広告宣伝マン。とてもクレバーな人だな、わかりやすい自己ブランディングの教科書だな、そんなふうに思いながらのんきに読んでいって、最後の最後でやられた。

そこに書かれていたのは、自分に足りない部分を痛いほど思い知り、どうでもいいようなマンガばかり描いているような気がしたり、思うように描けなくて泣きそうになったり、うれしかったり悲しかったり幸せだったり落ち着かなかったり、なんだかわけのわからない毎日だけれど、それでも死ぬまでマンガ家として生き続けたいのだという狂おしいまでの思いだった。しりあがりさんほどの人でも自分と同じようにさまざまなことで気持ちを揺すぶられながら、必死であがいて前に進もうとしているのだということが伝わってきて、なんだかもう、泣きたくなった。「自己ブランディングの教科書」ではない。決して器用ではないけれども、表現という行為を心から愛してやまない人の、切実なる叫びの1冊だった。

マンガ入門 (講談社現代新書)

マンガ入門 (講談社現代新書)

*1:キリンビールの広告宣伝部に所属していた。