光の当たるもう一方の極みに、それと対等のわざと精神がある。

なぜ、「影となる存在」に惹かれるのか。その答えを示してくれているような文章が、「京扇ーー1本の扇を生み出す人々」(武蔵大学・瀬田研究室の調査報告書)にある。ちょっと長くなってしまうけれど、忘れたくないことだから書き記しておく。

 日本の文化は、能や狂言、歌舞伎、日本舞踊その他世界に誇るべき数々の芸能をもっています。それらは華やかな光を浴びて目を引きますが、その演じ手の対極には、実は扇のような小道具の制作に携わり、それに自分の一生を賭ける人達の存在があるんだということを、目のあたりにしました。そんなことは考えてみれば当り前のことです。ところが想像力の乏しい私達は、実際に見たり、聞いたりという形で接してみないと、そうしたモノの背後に人がいるということを忘れてしまいがちです。日本文化の厚みは、実は光の当るもう一方の極に、それと張り合うような対等の技と精神があって、両者の力が共鳴し合うことによって保たれて来たのだということを実感しました。この見えにくい力の方を俗に「縁の下の力持ち」というのでしょうが、私達が目ざすべき文化史とは、そういう力を掘り起こし、作る者、使う者、そしてそれを橋渡しする者三者が織りなす関係の全体像を捉えていくことだと、改めて考えるようになりました。

(前略)一つのモノに込められた過去の人々の営みの豊かな蓄積が、益々見えにくくなっている現在です。それでも、過去とのつながりを確実に持ち続けてきた人達がまだいるわけです。そうした人達の仕事を、今、その生きて来た軌跡の片鱗とともに書き留めておくことが、過去と現在、さらに未来をつないでいくためにも極めて大切なことだと思われたのです。

わたしの原点を作ってくれた恩師の一人・瀬田勝哉先生による文章。学生時代にこのゼミで学ばなかったことが悔やまれてならないけれど、いま自分がやっていることはやっぱりあの頃とつながっているんだと強く感じた文章だった。そしてこの先も指針となってくれる文章のような気がしている。