書こうと思ったもう一つの理由

なぜここに自分の見たこと聞いたもの、思ったこと考えたことを書こうと思ったのか。もう一つの大きな理由は、情けないようだけれど「忘れてしまうから」。 どちらかというと、こっちのほうがメインかもしれない。「書き留めておきたい」のだ、わたしは。

日頃さまざまなものを見て、読んで、接して、いろいろなことを思っているのに、悲しいかな次々と忘れてしまう。「忘れてしまうことは、しょせん、忘れてもいいことで、本当に大事なことは覚えているもの」と言う人もいるけれど、どうも脳の問題というか、記憶力の低下*1という部分も大いにあるように思う。

まあ必ずしも記憶力の低下だけではなくて、思ったことを書き留めれば、自分のなかに何かがちゃんと蓄積される。けれど「言葉」にしなければ、心のなかのもやもやのまま、いずれ消えていってしまう。とてももったいないことをしているように思うのだ。

以前読んだ石川九楊氏の『筆蝕の構造』という本に、こんなことが書いてあった。


「書く」とはいったいいかなる人間の行為なのだろうか。
「書く」以前に脳裡に言葉が存在していて、それを筆記具を用いて書く、つまり脳裡の思考を複写するのだというような意味では、「言葉を書く」という行為は存在しない。
 漠然とした<さわり>や<しこり>のような言葉以前の想念が書くまえに脳裡に存在するとしても、実際に書かれなければ、それらは漠然とした<さわり>や<しこり>のままの状態にとどまる。あるいは、作者の胸のうちでつぶやかれる、声にならない、言葉以前である内語が断片的に脳裡に浮かび上がったとしても、「書く」か「話す」かして言葉に結晶しなければ、やがて時の経過とともに溶け、ふたたび脳裡の暗闇のなかに消え去ってしまう。どれほど想念が言葉にならないものであるか、ペンを持ったことのある人なら、知っていることだろう。いったんは書こうと思ったのに、思いなおして書かずに終ったことや、書こうと思っているのに、いっこうに言葉にならないもどかしい思いに、私たちはどれほど遭遇していることだろう。話される以前に言葉はなく、書かれる以前に言葉はないのだ。
書くということは、ぼんやりと浮かんだ想念を整理し、言葉として定着することなのだ。それをせずにしばらく<さわり>や<しこり>を抱えたあげく、それがいつの間にか暗闇に消え去ってしまっているということを自覚しているから、「書き残せない」ことに焦りやもどかしさや後悔を感じるのだ。

だからわたしは「書き留めたい」なあ、と思う。

筆蝕の構造―書くことの現象学 (ちくま学芸文庫)

筆蝕の構造―書くことの現象学 (ちくま学芸文庫)

*1:三十路も半ばを超えますと…。ううう。