第1回ARGフォーラム「この先にある本のかたち」に行ってきた

開催からずいぶん経ってしまったが、8月17日(月)学術総合センター 一橋記念講堂において開催された第1回ARGフォーラム「この先にある本のかたち−我々が描く本の未来のビジョンとスキーム」を聴きに行ってきた。登壇者は国立国会図書館長の長尾真さん、慶應義塾大学の金正勲さん、ジャーナリストの津田大介さん、起業家・ブロガーの橋本大也さん。主催は岡本真さん、総合司会が内田麻理香さん。

Googleブック検索Amazonなか見!検索をはじめ、海外のウェブ企業を中心に新たな本や読書のスタイルが続々と提案・実現されつつありますが、日本では、たとえばGoogleブック検索和解を巡って右往左往するといった事後的な対応が目立っています。しかし、ここに来て、最新の情勢として日本でも国立国会図書館が100億円単位で書籍のデジタル化予算を獲得、大日本印刷凸版印刷が出版業界との連携を模索など、これからの本を巡る動きが急速に動き出しつつあります。

このように急展開する事態を受け、本フォーラムでは、統一テーマに「この先にある本のかたち−我々が描く本の未来のビジョンとスキーム」を掲げ、長尾館長が出版産業との連携を見据えて提唱する長尾スキームを巡る基調講演を踏まえて、3名の論客を交えたパネルディスカッションを行います。活字離れや本離れが叫ばれて久しく、また、出版社の経営悪化や雑誌の休刊が相次ぐ情勢にあって、本や文字の価値が今後どのように推移していくのか、情報技術や産業構造に通じる若手有数の論客が加わることで、「この先にある本のかたち」を見通す催しとなると考えています。

2009-07-27(Mon): 8月17日(月)第1回ARGフォーラム「この先にある本のかたち」(長尾真国会図書館長×金正勲・津田大介・橋本大也)への招待 - ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版

書き手として生き残るには

本の在り方、出版社や編集者、書き手の在り方など、たくさんの考えるべき宿題をもらえたイベントだったが、書き手の一人としては、やはり「いかに生き残るか」ということが一番の関心事だった。津田さんのお話に出てきた「40歳を越えたライターがどうやって生きていくか」、いわゆる「ライター40の壁」から端を発するお話だ。なにしろ実際に、壁の手前まで年齢がきている身であるから、共感するやら耳が痛いやら。

津田さんが18歳の時に読んだ別冊宝島『ライターの事情』に書かれていたという、「40歳を越えたフリーライターが生きていくための3つの方法」

  1. 小説もしくはノンフィクションの作家になる
  2. 専門分野の第一人者になる
  3. 編集プロダクションを作り経営者となる

これに関しては、現在でもおおむねそのとおりなのだと思う。「なんでもやります」が通用した若い時代から、「この人に書いてもらいたい」「この人でなければ」と思われる仕事への転換がない限り、ライターとして仕事をし続けることはできないだろう。

そして、波紋を呼んだ橋本大也さんの「著者の印税が9割になる出版モデル」のお話。
「日本では現在7万冊の本が出版されているが、そのうち9割は数千部以下しか発行されていないはず。学術書なら数百部もありえる。つまり、現行の著者印税1割のモデルでは、本一冊書いても印税が100万円に満たない。多くの著者は副業がなければ食べていけない」「しかし、インターネットやブログの登場で、著者自ら情報を頒布する環境ができてきた。出版社・取次・書店の流通パワーに頼らずとも、著者が自らネットで読者(ファン)を集め、ファンとスターの関係を築いて、ネット直販を行えば、著者印税9割もありうるのでは」という提案だ。橋本さんは「特に、濃い読者を集める可能性がある学術書、専門書、サブカルチャーがこうした方法に強いのではないか」ともおっしゃっていた。そこでは、自分でつかんだファン層をコミュニティによっていかに維持していくかが課題となる。

「著者9割」に関しては、壇上で津田さんも発言されていたように、わたし自身も出版社や編集者の意味を感じているので、そこまで極端なことは言わない。むしろ津田さんの「50:50、フェアで対等な関係を作ることを考えていきたい」という発言に強く共感する。

けれど「濃い読者(ファン)を集める」ということはひとつのキーワードであると思った。

かつて雑誌は、ある分野や嗜好に対してファンが集う場をつくる役割を担っていた。知り合って間もない人の嗜好を知るために「好きな雑誌は?」と聞き、同じ雑誌が好きだと仲間意識を感じるというような存在だった。けれど、その雑誌が次々と倒れていっていき、「場をつくる」機能はどんどんネットに移行している。これからは、いやすでに、書き手も出版社も、「いかにネット上に場をつくり、ファンを集め、維持するか」、そのための情報発信について考えていかなければならない。そしてまた、雑誌はいま一度、「場をつくる」という役割についてよく考える必要がある(わたし自身は変わらず雑誌は好きであるので、このままダメになってほしくない)。

電子図書館への期待

フォーラムのメインテーマに据えられていた「電子図書館構想」。いずれすべての書籍がデジタル化され、ネットで閲覧可能になっていく可能性に対しては、書籍を学術調査で利用する立場としては、推進、整備を強く望む。すでに明治大正期の書籍を国立国会図書館が「近代デジタルライブラリー」として公開しているが、その恩恵を受けたこともある身にとっては、自宅に居ながらにして文献を閲覧できるのはとてもありがたい。

けれども現時点では、電子図書館だけで事足りるとも思えないのがまた実感だ。近代デジタルライブラリーで見つけた書籍については、すでに一般書店や古書店での入手が困難で、国会図書館に行かない限り閲覧できないような文献であるので、デジタルデータを閲覧し、必要に応じてプリントアウトして利用した。学術利用の場合、フォーラムでも話に出たように「本を最初から通しては読まない」「必要箇所しか読まない」ということは確かに言える。けれどもやはり、目次を見ただけで必要箇所を判断したのでは取りこぼしが出てくるし、検索性がどれだけ向上しても、キーワード検索のみで判断していると取りこぼしが出るように感じる。その文献が大切だと思ったら、どうしても本一冊を頭からめくりたくなり、その場合にデジタルデータでの大量ページの閲覧はまだつらい。紙の書籍の一覧性ということは、とても大きな利点だと思っている。

だからといって電子図書館を否定するのではなくて、併存していってくれるといいなというのが、学術調査への利用者としての感想だ。

また、この話題はフォーラムでも言われていたように「小説の場合はまた別」。けれども、生活史、文化史の分野では、ある時代の生活や文化を知るために、その時代に書かれた小説をひもとくことがある。そういう利用をされることを考えると、やはり検索によって目的の事柄が書かれた作品を探し出すことができるのは、大きな魅力だと感じる。*1

本の二極化

フォーラム全体を通して聞いていて複雑な気持ちになったのは、あの場では、本をコンテンツとしてとらえている方が多いように感じたこと。つまり重要なのは書かれている内容そのものであって、制作コストをかさませる紙はなくせるものならなくしたいぐらいの空気があったように思う。本をコンテンツと見なした時に切り捨てられる、デザインや紙、印刷といったパッケージ部分に魅力を感じ、その魅力を伝えていこうとしている者としては、考えさせられる内容だった。

コンテンツさえあれば、という感覚も理解できないわけではない。それもやはり、その本の性質による。本は、コンテンツが重要視され、パッケージを極力簡略化して流通していくものと、「もっていてうれしい」という所有欲を満たす、モノとしての魅力を訴求した、パッケージを大切にして作られた本とに、ますますきっぱりと二極化していくんだろうなと思う。パッケージとしての魅力を訴求する本は、中途半端にそうするのではなく、とことんまでやり抜くことが必要なのかもしれない。

なにごとも中途半端ではダメなのだ。とことん突き抜けていく勇気と根気。それを持てるかが、ひとつの鍵であるような気がする。

最後に、このイベントを個人で開催されたというARG主催の岡本真さんに拍手を。すごいことだと思います。司会の切れ味もすばらしかったです。ありがとうございました。

【参考】
第1回ARGフォーラム「この先にある本のかたち−我々が描く本の未来のビジョンとスキーム」への皆さんの感想(1)
Twitterに寄せられたARGフォーラム関連のつぶやき

*1:ちなみに、現代は記録が残りづらい「ふだんのくらし」についての膨大な記録がブログ上に残されている時代といえる。これらのブログが保管されていけば、数十年後に生活史の研究に取り組む人にとっては宝の山といえるかもしれない。ただし、膨大なログの山から、本当に資料となるものを探し出すための嗅覚と労力は必要とされると思うけれど。