やさしいねこ。

おむかえの帰り道、あちこちで猫を見かけるたびに立ち止まり、子どもと一緒にひとしきり話しかける。時折、人なつこい猫がいて、ゴロゴロと喉を鳴らしながら甘えに来てくれる。子どもは最初はおっかなびっくり、しかし慣れてくるとそれはうれしそうに、猫の背中をなでている。

「人なつこい猫だね」わたしがそう言うと、翌日は「かしこいねこちゃんがいる道を通ろ。かしこいねこちゃん、きょうもいるかな〜?」と言う。「ひとなつこい」という言葉を知らなかったのか、自分の知っている言葉に置き換えられたらしい。この年齢ならではのそういう間違いが、愛おしくてしょうがない。

「うちにも猫がいればいいのにな。あまえてくれる猫ちゃんがほしいな〜」つぶやく子どもに「ももちゃんがいるじゃない。ももちゃんもかわいいよ」と答えると、「うん、ももちゃんはやさしいよ」と答えが返ってきた。

“ももちゃん”とは実家にいる猫だ。学生時代から結婚前までは、わたしと一緒に暮らしていた。

「そうだね、ももちゃんはやさしいよね」そう言いながら、自転車をこいで、いつもの道を帰った。

ももちゃんーーももたが亡くなったと父からメールが届いたのは、その日の夜だった。春に亡くなった母が眠る仏壇の置かれた床の間で、眠るように静かに息を引き取っていたそうだ。17歳だった。

母がさみしがるといけないと、そばに行ってくれたのかもしれない。「ももちゃんはやさしいよ」。こどものつぶやきが頭のなかでこだまする。静かに眠るももたの写真が届いた携帯電話をにぎりしめながら、わたしも静かに泣いた。