「ニューイヤー・ヨコオ」〜横尾忠則・“公開コスチュームプレイ・パフォーマンスペインティング”

1月23日(金)、世田谷美術館で行なわれていた横尾忠則さんの公開制作「ニューイヤー・ヨコオ」に行ってきた。2008年秋、兵庫県立美術館で行なわれたイベントを皮切りに、横尾さんは「PCPPP」と名付けた公開制作に取り組んでいる。2008年12月〜1月は世田谷美術館、そしてこの後も金沢21世紀美術館など各所で、今後継続的に行われていく予定だそうだ。

さて、「PCPPP」とは何ぞや。
どうやら、「Public Costume-Play Performance Painting」の略らしい。

「Y字路」というテーマでここ数年間制作を続けているが、ここに至ってY字路という外部とアトリエという内部を統合するために、その両者の媒介者として路上で働く人、または通行人を特徴づけるコスチュームを着用して、その制作現場を公開することにした。その目的は、制作者と目撃者の創造の融合を図るためである。 −横尾忠則

これまでのイベント | 世田谷美術館 SETAGAYA ART MUSEUM

簡単にいえば「コスプレ公開制作」ということか。横尾さんの言葉から引けば、「絵の中で家を建てたり、道路を作ったりするわけですから」鳶職の服を身につける、ということらしい。「コスチュームは絵が決める」と。

午前中から行なわれていたが、お昼休みが終わるころを見計らって14時ごろに世田谷美術館に到着。それにしても、雨上がりの朝はあんなに寒かったのに、なんとぽかぽかした昼なのだろう。

会場の入口を見ていれば「13:30までお昼休みです。」の貼り紙。ちょうど午後の部が始まったころかな?と中をのぞくと、横尾さんの姿はない。どうやら、まだお昼休みは終わっていないようだ。キャンバスを見ると、大きなキャンバスの一部に四角く、まるでそこに小さなキャンバスが貼られているように絵の具が盛られており、Y字路のまんなかに建つ家が現れていた。でも、どうしてまわりが白いんだろう? そして、絵の横に無造作に絵の具が塗りたくられたようになっている場所があるのはなぜなんだろう?(後ほど、それがパレットだったとしってびっくりする。しかもキャンバスの一部をパレットにするのは「今日が初めて」で、理由は「パレットを持つのが面倒だから」なのだそうだ!)

10〜15分ほど待ったころだろうか。わっと会場がざわめいたので入口を見ると、「どうもー!」と元気よく登場したのは糸井重里さん。横尾さんのウェブ日記や糸井さんの「今日のダーリン」で、どうやら今日は糸井さんが遊びにこられるらしいとは知っていたけれど、タイミングがばっちりだったようだ。でも、肝心の横尾さんの姿は、まだ、ない。

「ぼくがいまここに登場することを求められているわけじゃないのはわかっているんですけど(笑)、横尾さんから、着替えが終わるまでちょっと場をあたためておけと頼まれまして…」
なるほど。

そうして、「制作中の人にはなかなか話しかけづらいですよね。怒られちゃいそうで。ぼくが代わりに怒られてあげますから、みなさん、横尾さんに質問はありませんか」と質問を募る糸井さん。いくつか質問が集まる。でも、なかなか横尾さんは登場されない。

「……。有栖川公園ってご存じですか。実はあれ、ぼくの持ち物なんですよ。娘がぼくにくれたんです」*1
おもむろに話しだした糸井さんに「えええっ?!」と会場がざわついたところで、巨匠登場。すぐに話をやめようとする糸井さんに、「しゃべるのやめないでよ。しゃべっててよ」と「BGM」ならぬ「BGO(バック・グラウンド・オシャベリ)」を頼む横尾さん。
「おしゃべりしながら絵を描いたことなんてないから、どんなふうになるか、やってみたいじゃない」と。

そこで、公開制作を行いながら公開インタビューを行うという、なんともぜいたくな時間が実現することになった。「公開制作」とはいえ絵を描く現場であるから、もっと張りつめた、物音ひとつたてられない空気を想像していったのに、わりと気軽に声を発することのできそうななごやかな雰囲気に驚いたのだけれど、聞けば、これまでの公開制作はやはり、ひたすらに絵を描く横尾さんの姿を観客たちがひたすらに見つめるという感じだったそうで、最終日でありサプライズゲストが登場した昨日は、かなり特別な雰囲気だったのかもしれない。

さて、そんな昨日の様子は、実はほぼ日刊イトイ新聞でリアルタイム実況されていた*2。かなり詳しく会話まで紹介されているので、全体の流れはそちらを見るのがよいと思う。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 横尾さんの、街角的公開制作。

見ていただくとわかるように、絵を描いている途中で「Y字路を描いているはずだったのに、これは単なる“一戸建て”だ! しかも、うしろが火事の(火事ではない)」と判明するハプニングがあった。横尾さんも「これからはY字路はやめて一戸建てというシリーズにしようかな」とおっしゃるのでどうなることか……と思っていたら、糸井さん退出後、それまで参考にしていた写真とは別の写真を手に取り、思案し、黒い絵の具を出した。……と思えば次の瞬間には一戸建ての両脇に背景が出現して、Y字路となっていた。「瞬間」とは大げさな、と思われるかもしれないが、その変化は本当に「瞬間」だった。状況が打開されるときはもう本当に一瞬の間でここまで劇的な変化を遂げるのだということに、心から驚いた。なんという速さだろう。

そして、きれいに塗り込めてほぼ完成していると思われた部分を壊すことに、なんのためらいも見せない姿も印象的だった。横尾さんの日記(http://www.tadanoriyokoo.com/vision/2008/11.htm)で

思考の崩壊がつまり創造なんだ。崩壊なくして創造はない。

(2008年11月22日より)

http://www.tadanoriyokoo.com/vision/2008/11.htm

という言葉が書かれていたけれど、まさにその現場ーー「崩壊なくして創造はない」という場に居合わせたという衝撃を受けた。

以下、印象に残った言葉をいくつか。

食べ物の話なんてしたくない。

食べ物の話をする糸井さんに、「ぼくは食べ物の話なんてしたくないんですよ」と言う横尾さん。
曰く、「目の前にあるものに熱中すればいいのに、そこない食べ物の話をする人がいるでしょう。それが許せない」。だってそこにない食べ物の話をしても、食べられないのだから。目の前にあるものに目を向けるべき。食べ物に限らずいえる、深いひとこと。

間違えたほうがいい。

色をパッパと決める横尾さんに、「どんどん決めていきますね。間違えることはないんですか」と糸井さん。
「こういうものは、間違えたほうがいいんです。間違えるとその上にまた色を塗るでしょう。するとたくさんの色が重なり、影響してくる。だからぼくはよく刹那的に色を決めていくということをするんです」

立場を考えない。

「おしゃべりをしながら描くのは今日が初めて」という横尾さんに、「もしこれで変なことになったら、ぼくの立場は」という糸井さん。そこへすかさず横尾さんの「立場なんて考えないほうがいい。立場なんて考えてると、生きにくいでしょう。生きにくくなる人は、自分の立場のことばかり考えるんですよ」という言葉。なにげなく発した言葉でも、切り込むべき場所をとらえる時は鋭く速い。

おしゃべりの効用と、ドーピング。

「おしゃべりをしていると、雑念がコントロールできる」という横尾さん。
「たとえば座禅をすると、頭の中にものすごく雑念が去来する。それはもう、座禅なんてしなければよかったと思うほどに。絵を描くというのは、それに似た、一種の瞑想状態に陥るんですね。だから雑念が次々浮かんでくる。ところがおしゃべりをすると、そういうことがなくなる。しゃべっているほうがむしろ雑念をコントロールできる」
さらに、
「絵に対して責任をとろうとしている自分がいるわけです。けれど、糸井さんと話しながら描いてると、無責任にできる。感謝してますよ」と。

そしてそこから「絵を描くことは麻薬だ」という話に。
「なんらかの麻薬物質を脳で出さなければ、絵は描けない」という横尾さんに、「出てますよね、脳に。“絵を描かないと生きられないわたし”になるわけですね。そういう意味で、絵はすべてドーピングともいえるのでは?」と糸井さん。

「絵を描かないと生きられないわたし」という感覚は、わかる気がする。比べるのもおこがましいけれど、わたしは「書かないと生きられないわたし」だから。

すべての作品は未完である。

最後に、一番印象に残った言葉。
「ここにあるすべての作品(本日の絵も含め、12〜1月の公開制作で描いた作品)はすべて完成はしていないけれど、(時間がきたり、もう描きたくないと思ったから)完成なんです」と横尾さん。
すべての作品は完成などしていないのだという。
「つまらない、と思うから次がある。完成させてしまったら、次はありません」

そして、自分の作品の評価について。
「評価は、どのぐらい吐き出せたかという充足度で決まる。他人の評価ではなく、自分の評価で決まるんです。他人の評価なんて気にしてしまったら、布団をかぶって部屋にこもっていなくちゃいけないでしょ」

「自分の評価」で決めるのだ。

そういえば、この日の公開制作に遅刻してきたという横尾さんに、お客さんを代弁して糸井さんが「なぜ遅刻したんですか?」と質問すると、「クセです」と答えていた横尾さん。その心は、「だって理由なんてないから」。それを受けて糸井さんが「そもそもこの場に遅刻という概念がないわけですね。だって“自分の時間”ですものね」と話されていた。
そういえば横尾さんは、日記でこんなことも書かれていた。

「隠居だというのに忙しいですね」と人によく言われます。忙しいというのは他者主導の時間にはまった時です。隠居の時間は自己主義時間です。だから忙しくないのです。

(2008年11月17日より)

http://www.tadanoriyokoo.com/vision/2008/11.htm

気がつけば他者主導で生きている、という人は多い。そういう人のほうが多いのではと思う。わたし自身もそうだ。他人の評価を気にし、他者主導の時間にはまって「忙しい」を連発する。そうしてなにか物事や状況が起きた原因を他人のせいにしたりする。

けれど横尾さんは、自分の人生を、生活を、作品を、確かに自分で主導している。だから横尾さんの作品、そして言葉は、わたしたちの胸に響き、刺さり、ざわめきを起こすのだ。

昨日のあの瞬間、あの場にいた人にしか感じることのできなかった、とても尊い体験をした。楽しい時間だった。

*1:ちなみにこれは、「でも、だれも遊ばない公園を持っていても楽しくない。だからみんなに公開してるんです」という、「ぼくのものは君のもの」に通じることのたとえ話でありました。

*2:スガノさんがリアルタイム実況を行っている様子を見られたのも興味深かった。かなりコンパクトなカメラで撮影していたけれど、写真、きれいだなあ。カメラはなにを使っているんだろう。