ゼラチンシルバーセッション08展「Save The Film」

アクシスギャラリーで開催されていたゼラチンシルバーセッション08展「Save The Film」を観た。

フィルムを使用する「銀塩写真」は世界的なカメラのデジタル化により、市場規模が急速に縮小し、消滅しつつあります。それは銀塩写真でしか表現出来ない独特の風合いや、長い間培われてきた暗室作業等の手仕事、技術が失われる事でもあります。

ミュージシャンが色々な楽器を奏で、画家が筆や絵の具を使い分けて多彩な表現が出来る様に、私たち写真家も表現手段の選択肢として次の世代の為にもフィルムや印画紙を残していきたいのです。

http://www.gs-s.info/program/1002-16/

デジタルカメラの恩恵を、わたしも大きく受けている。動きが激しく難しい子どもの写真も、デジタルならば枚数をあまり気にせず数多く撮影できる。取材でも、その場である程度写真を確認できるため、撮影しながらレイアウトを決めていく、というような方法が可能だ。

デジタル写真に大いにお世話になっている、だからといって、銀塩写真がなくなっては嫌だな、と思う。宇宙物理学者の佐治晴夫さんが展示に寄せた文章に、その理由が明快に書かれていた。

デジタル写真は、撮影直後の映像の確認が容易であり、取り直し、消去にも手間がかからず、しかも、撮影後の画像処理が自由自在であるなど、驚くべき利点を有するが、一方では、撮るべき一瞬と対峙する緊迫感に欠けるというデメリットを生み出す。(略)

(佐治晴夫「宇宙のからくりからみた銀塩の魅力 〜フィルム、デジタルの根源的差異を考える〜」より)

フィルムは有限であるからこそ、「このひととき」との思いを込めてシャッターを押した写真には、一瞬の持つ凄みと、研ぎ澄まされた空気がある。具体的な図像として見えていなくても、確かにそこに写り込む空気というものがある。

「現像してみるまで、どのように撮れているかわからない」という、その魔法のような感じは、印刷を思い出させる。かつて手書きの指定紙で入稿した印刷物も、刷りあがってみるまでどのような仕上がりかわからない、魔法の箱のような存在だった。デザインをする者が自由にさわることができなかったからこそ、入稿する指定紙には「目指すのはこの一点」という揺るぎない決意があった。

時は過ぎ、デザインも写真もデジタル化に伴って、簡単に確認、修正ができるようになった。それはとても便利で、その行為に対する敷居を下げてくれたけれども、以前は必ず行為とともにあった「覚悟」が希薄になった。ゆえに揺るぎなく他にない一点になりにくい。

以前、葛西薫さんにインタビューした時に聞いた言葉を思い出した。
「デザインを考える時、まずMacではなく、手を動かして紙に描く。けれどもそれ以前に、できるかぎり頭のなかで仕上がりをイメージする。紙に鉛筆を下ろすのが怖いんです。描き始めてしまったら、そこに表れた形に、必ず影響を受けてしまうから」

筆先を下ろすのが怖い、線を描き始めるのが怖い。デジタルに慣れてしまったいま、わたしたちはそういう畏怖をあまりにも忘れてしまっているように思う。同様に、「撮るべき一瞬」にシャッターを押すのが怖いと感じるほどに張りつめた思いで写真を撮ることが、少なくともわたしには久しくなかった。

「一瞬と対峙することの緊迫感」、そして、写真には写り込んでいないけれども確かに空気に含まれる“撮るべき瞬間をとらえるまでに紡がれた時間”の存在を強く感じ、考えさせられる展覧会だった。

最後に、とても響いた箭内道彦さんの言葉を。

みんな、明日が来るって思い過ぎなんだ。

GELATIN SILVER SESSION―21世紀の銀塩写真

GELATIN SILVER SESSION―21世紀の銀塩写真