平野敬子「デザインの起点と終点と起点」展

昨日、平野敬子さんの個展「デザインの起点と終点と起点」を観に、gggに行ってきた。

ギンザ・グラフィック・ギャラリーでは、2008年9月企画として<平野敬子「デザインの起点と終点と起点」>を開催いたします。
 平野敬子は関わってきた全ての仕事を、強い意志を湛える静謐な完成形へと導いてきました。携帯電話「F702iD所作」、東京国立近代美術館資生堂 qiora、小沢健二のCD。一貫して高い美意識が宿る作品群を並べると、その実、全ての要素が「機能している」ことに改めて驚かされます。デザインとは機能を果たすもの、という至極当然の事実が、平野の手により浮き彫りにされるのです。

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平野さんの作品は不思議だ。それは商品あるいは広告として世に出たものでありながら、その前に立つと自然と背筋が伸び、厳かな気持ちになる。展覧会を観て、それは作品のシンプルな形態が、膨大な思考の集積と、可能な限り完成度を上げることを目指し絶えることのない試行錯誤との末にたどりついたものであるからだと気がついた。膨大な集積は過剰な形態として表れるのではなく、必要な要素以外を削ぎ落とすために行なわれる。ごくシンプルなデザインの行間に、その思考と行為が匂い立つからこそ、平野さんの作品を前にすると自然と厳粛な気持ちになるのだろう。

そのことを際立って感じたのは、地階に展示されている資生堂ビューティーサルーンの一連のポスター群だった。平野さん自身の鉛筆によるドローイング作品をデザインしたもので、デザイン作品としては彼女の最初の仕事に当たる。そのドローイングは、水晶のようなものを鉛筆で描いたモノクロームの世界だ。しかしそこには鼓動のようなものを感じる。ひとたび目にすると、目が離せなくなる。なんだろうこれは、と思いながら、何度もそのポスターの前に戻り、見つめることを繰り返した。

1階入口付近に戻り、展覧会場に入ってすぐの壁は、一面が白い本で覆い尽くされている。3000冊の本が並べられているのだという。その一冊一冊を平野さん自身が棚に納めたことを知らなくても、人の手が並べたであろう白い本は、静謐なたたずまいのなかから圧倒的なエネルギーを発している。近寄り、見上げると、背に施されたエンボスによる本のタイトルが、わずかな陰影をもたらす。きれいだな、と思った。ごくわずかな陰影が織りなす連続的な模様。

白い本には展示されている作品の全解説が、平野さん自身の言葉によって語られている。それ自体が作品でもあるその本は、来訪者に貸し出されてもいる。本を手に取り、作品を観ながら、解説を読む。作品との、そして平野さんの言葉との、とても近しいコミュニケーションがそこに存在する。

展示は全体を通して、平野さんが追求し続けている「白」を核にまとめられている。白とは、光だ。白と黒、光と影。さまざまな作品を観ながら、ある時は印刷物として、ある時は絵画として、ある時は物質そのものとして、光をいかに定着するか、その難しさを考え続けた。

平野さんは、さまざまなもののなかに「美しさ」を見出しているのだということも改めて思った。それは誰もが美しいと認めるもののみならず、人々が見過ごしているもののなかにこそ、彼女は惹かれる。たとえば、積み重ねられた印刷物の側面が生み出す文様。たとえば、くしゃっと丸められた白い紙の皺が織りなす陰影。そうしたものを「美しい」と感じながら、ある時それがデザインとして結実し、わたしたちは驚愕させられる。

白い本ーー『White Book』を一冊購入した。もう一度じっくり読みたい。

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昨日は初日だったということもあり、プレビュートークとして永井一正氏との対談が行なわれた。平野さんが画家として活動をしていたころから20数年にわたりお世話になってきた、という永井氏との対談は、いつも二人の間に交わされている大切な会話が垣間見える、リラックスした空気に包まれたあたたかなものだった。示唆に富んだ言葉の数々で、ノートにペンを走らせ続けたが、ここには一番印象に残ったことだけを書いておく。

柔和な物腰で穏やかな永井氏が、やや強い口調で、こんなことを話された。
「明るくて健康的で良い面ばかり見せてどうするんだと思います。闇があるから光が輝く。闇のないところには、魂に差し込むような光は生まれません。人間には誰しも二面性がある。闇を克服することによって、初めて光を手に入れることができるんです」
それを受けて、平野さんは、
「苦しみや葛藤を否定する人生ほど、愚かなものはないですよね。挫折がないということは、優しくないということだと思うんです」と。
とても大切なお話だと思った。闇から目を背けて、「なかったこと」にしてはいけない。光があれば、影は同時に存在するのだ。展覧会は9月29日(月)まで。