「我事に於て後悔せず」

ひと月ほど前に読んだ小林秀雄の文章「私の人生観」(昭和24年)に、宮本武蔵の独行道のなかの一条、「我事に於て後悔せず」という言葉について触れられた部分があり、メモしてあった。その時には腑に落ち切らず、しかし素通りすることもできなくてメモしたのだけれど、『バガボンド』を読んだいま読み返すと、とても響いてくる。

 宮本武蔵の独行道のなかの一条に「我事に於て後悔せず」といふ言葉がある。菊池寛さんは、よほどこの言葉がお好きだつたらしく、人から揮毫を請はれるとよくこれを書いてをられた。菊池さんは、いつも「我れ事」と書いてをられたが、私は「我が事」と読む方がよろしいのだらうと思つてゐる。それは兎も角、これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬといふ様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申すならば、自己批判だとか自己清算だとかいふものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言つてゐるのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういふ小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言へよう、さういふ意味合ひがあると私は思ふ。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやつて来るだらう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道が屹度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ、後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は語つてゐるのである。それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替へのない命の持続感といふものを持て、といふ事になるでせう。そこに行為の極意があるのであつて、後悔など、先き立つても立たなくても大した事ではない、さういふ極意に通じなければ事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人は言ふのであります。行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考へます。これは枯れの観法である。認識論ではない。
信ずることと知ること 小林秀雄,弥生書房1991,P.39-40)

自己批判だとか自己清算だとかいふものは、皆嘘の皮である」
「そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういふ小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だ」
「後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ」

だから、
「今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替へのない命の持続感といふものを持て」
「そこに行為の極意がある」と。

後悔にひたるという行為は、自らが打ちひしがれていることを自ら認め、その状態に酔っているだけかもしれない。うまくいかなかったことや過ちを反省することは必要だが、それはあくまで次に進むための行為であって、自らの批判に終止してしまってはいけない。

「行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ」
常に「同じ命を賭ける覚悟」とともにあるからこその、「我事に於て後悔せず」という言葉なのかなと思った。

信ずることと知ること

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