ブログは「上手に忘れるためのツール」

思考の整理学』で外山滋比古氏は、人間にはグライダー能力と飛行機能力があるとしている。

 人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力をまったく欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。
 しかし、現実には、グライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という“優秀な”人間がたくさんいることもたしかで、しかも、そういう人も“翔べる”という評価を受けているのである。
外山滋比古思考の整理学』P.13,ちくま文庫,1986.4/初出は1983)

新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠であるが、学校教育はそれをむしろ抑圧してきた。他方、情報社会である現代においては、グライダー人間をすっかりやめてしまうわけにもいかない。グライダー兼飛行機のような人間となるにはどういったことを心がければよいのか。それについて書かれたのがこの『思考の整理学』だ。思考するための道標となる考え方が示された、実に楽しい本だった。頭の中を醸造所にたとえ、アイデアと素材に酵素を加えて醗酵させることによって酒を作るということが書かれている。先日、自分はカメだと書いたが、もしかするとこの本で読んだことが記憶のどこかに残っていたのかもしれない。

道標たる考えは随所にたくさん散りばめられているのだが、印象に残った部分を中心に大きくまとめれば、次のようになる。頭のなかで「酒」を作るには、「寝かせる」ことが必要。すなわち、材料(知識)で埋め尽くされた頭のなかの思考を整理するには、スペースを作る=一時的に忘れることが必要である。安心して「忘れる」ためには、書いておくことだ。とにかく一度書いておいて、寝かせておく。いったん忘れてほかのことを考えていると、いつかどこかで着想が得られるときがくる。「無意識の時間を使って、考えを生み出すということに、われわれはもっと関心をいだくべき」*1である。

適度に忘れるためにも、「テーマはひとつだけでは多すぎる。すくなくとも、二つ、できれば、三つもって、スタートしてほしい」*2。いつ煮えるかと見つめ続けると、ナベはなかなか煮えない。

 ひとつだけだと、見つめたナベのようになる。これがうまく行かないと、あとがない。こだわりができる。妙に力む。頭の働きものびのびしない。ところが、もし、これがいけなくとも、代りがあるさ、と思っていると、気が楽だ。テーマ同士を競争させる。いちばん伸びそうなものにする。さて、どれがいいか、そんな風に考えると、テーマの方から近づいてくる。「ひとつだけでは、多すぎる」のである。
外山滋比古思考の整理学』P.43,ちくま文庫,1986.4/初出は1983)

書いておけば、安心して忘れることができる。「人間は、文字による記録を覚えて、忘れることがうまくなった。それだけ頭もよくなったはずである」*3。書きとめておくためのツールとして、外山氏はカードとノートを紹介し、その具体的活用方法まで披露している。

また、「声に出してしゃべる」ことの効用も述べているが、一方で、丸谷才一氏が書いていたのと同じように、「めったなことで新しいアイデアを人に得意顔で吹聴したりしてはいけない」*4とも言っている。話を聞いた相手はたいてい、「あっさり、たいしたことではないといった反応をする」からだ。そういう「冷たい仕打ち」を受ければ、たとえ熟成させたアイデアであっても「ひどい傷手をこうむる」と。

けれども、こんなことも言っている。

気心が知れていて、しかも、なるべく縁のうすいことをしている人が集まって、現実離れした話をすると、触媒作用による発見が期待できる。セレンディピティの着想も可能になる。なによりも、生々として、躍動的な思考ができて、たのしい。時のたつのを忘れて語り合うというのは、多くこういう仲間においてである。
 たくまずして、話ははじめから脱線している。脱線は脱線を誘発して、はじめはまったく予期しなかったところへ展開して行く。
 調子に乗ってしゃべっていると、自分でもびっくりするようなことが口をついて出てくる。やはり声は考える力をもっている。われわれは頭だけで考えるのではなく、しゃべって、しゃべりながら、声にも考えさせるようにしなくてはならない。
外山滋比古思考の整理学』P.158-159,ちくま文庫,1986.4/初出は1983)

丸谷才一氏の『思考のレッスン』を読んだときにも感じたが、「書きとめておいて機(思考)が熟すのを待つツール」として、ブログというのは適しているのではないだろうか。「書きとめておく」のに加えて、上述の「気心が知れていて、しかも、なるべく縁のうすいことをしている人が集まって、現実離れした話をすると、触媒作用による発見が期待できる。セレンディピティの着想も可能になる」という状態を、ブログで作ることができるように思う。

話は飛ぶようだが、日々感じたこと、考えていることをブログに書き綴ることによって、志向性を同じくする人がそこに集まり「志向性の共同体」が生まれる、と梅田望夫氏は『私塾のすすめ』で言っている。

梅田 ブログだともっとわかります。履歴書を見るよりも、その人のブログを見たほうが人物がよくわかります。
齋藤 なるほどね。履歴書やエントリーシートに書く作文のようなものは、細部まで他人の目を意識して作られたものですから。たしかに、ブログを見たら、その人が透けて見えるかもしれない。そういう性質が、ブログというものにあるんでしょうね。気楽さというか、つい書いてしまうというような性質が。そこで感性が磨かれますよね。
 読む側も、いろいろなブログを読むことで「志向性感知アンテナ」みたいなものが磨かれる。それは仕事をしていくうえで、一番大切なアンテナかもしれないですね。情報を模索する能力以上に、志向性アンテナのほうが、人生にとっては大きな影響を及ぼすのではないかと思います。
梅田 まったく同感です。そしてこれからの時代は、新しいタイプの強さを個々人が求められていくと思うんです。その強さとは何かを突き詰めて言えば、オープンにしたままで何かをし続ける強さ。たくさんの良いことの中にまざってくる少しの、でもとても嫌なことに耐える強さです。そこを乗り越えて慣れてしまえば、全く違う世界が広がる。
(『私塾のすすめ齋藤孝梅田望夫,2008,P.53-54)

丸谷氏も外山氏もアイデアをやたらと人に話すものじゃない、少しでも冷たい反応をされようものなら目も当てられない、というが、その「痛み」を越えてなお、「志向性の共同体」が生まれることは、自分を勇気づけてくれるような気がする。

さて、話は戻って外山氏が『思考の整理学』を書いた背景には、コンピューターの登場ということがあった。それまでは「知識の蓄積」も人に求められる能力の一つであったが、もはやその面において人間はコンピューターにはかなわない。だから、「人間だからこそできること」を行なう飛行機型人間にならねばならない、そうでない人間は仕事を失う、と書く。20年前にそれを書いてることに驚くばかりだ。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

*1:P.41

*2:P.43

*3:P.121

*4:P.155