大正初期のお化粧

もう一つ、宇野千代の『私のお化粧人生史』で興味深かったのは、1897年生まれの彼女が17歳の当時行っていたお化粧のしかたが詳しく書いてあることだ。幼いころから両親に「お前は色黒だ、そんな色黒では嫁のもらい手がない」と言われ続けた(ひ、ひどい…)彼女は、そのコンプレックスを拭うために、毎日たんねんにお化粧をした。

 まず顔を洗って、クラブビシンクリームを塗り込み(その頃にも、クラブの化粧品がありました。)、それからクラブ煉白粉(ねりおしろい)を手のひらにといて顔中から襟にかけて塗り、その上を、大きな牡丹刷毛にお湯を一ぱい含ませて、幾度となく撫でながら白粉をおちつけてから、乾いたガーゼで水気を拭い、さてそれからその上に、クラブ粉白粉を軽くはたいて、口紅をちょっとつけ、頬紅をはたき、一番あとで、眉の仕上げをしました。(その頃にもどこかに眉墨と言うものがあったかどうか知りません。私の自分で発明した眉墨は、マッチの棒でした。マッチの棒をちょっと燃してすぐ消すと、先きの二、三分燃えてケシズミになった部分で、眉の上をこするのです。この自家製眉墨のお陰で、私の眉はたしかに摺り切れてしまって、いま現在の私の眉のように薄くなってしまったのだと思います。)
 さア、これで絶世の美人が出来上がりました。しかしいま考えると、これは相当の濃化粧だったと思いますが、昔は一体に、こう言う型の、仰山なお化粧がはやっていたのです。それにしても、私のこの第一級的な念入りのお化粧は、顔を洗い始めてから、眉の仕上げをするまでに、タップリ四十五分はかかりました。
宇野千代私のお化粧人生史』,1984,P.123)

45分! 彼女はそれを、すっかり夜が明けない薄暗がりのなか、ろうそくの灯のもとでしていたたのだそうだ。自分で考えたという「マッチ棒の眉墨」は、片眉に3本、両方で毎朝6本のマッチが必要だったという。貧乏で、着たきり雀だった彼女の唯一の出費が、これらのお化粧品だった。彼女をそこまで駆り立てたのは、ひたすらに「色黒を隠したい」からであり、事実、お化粧をするようになってからというもの、近所で評判の美人となったという*1。もともと肌のきめが細かかったとか、顔の造型がよかったということもあるのだろうけれど、日本人の美白信仰って根強かったんだなあと思う。「色白は七難隠す」っていうものね。

私のお化粧人生史 (中公文庫)

私のお化粧人生史 (中公文庫)

*1:「結婚してください」と血で書かれたラブレターをもらうほど!