「異形のモノに美は宿る」

爆笑問題のニッポンの教養 異形のモノに美は宿る』を読んだ。

その分野への案内役

NHKの番組「爆笑問題のニッポンの教養*1の放送1回分を1冊にまとめた新書。この「異形のモノに美は宿る」では日本美術史研究家の辻惟雄さんをゲストに迎え、爆笑問題のふたりとそれぞれ自分の好きな絵を持ち寄って自由に話しつつ、日本美術の奇想の系譜について考える。

なにしろ番組1回分なので、薄い。かんたんにすぐ読めてしまう。あれっ、もう終わりか……とも思うけれど、ゲストの著書などから引いた言葉が本の各所に散りばめられていて、興味を引かれる。たとえば、こんな言葉たち。

「日本人の性癖とされる好奇心を、やや人並み以上に持ち合わせているらしいわたしが、美術作品にひそかに望むのは、意表をつかれたときの驚きである。眠っている感性と想像力が一瞬目覚めさせられ、日常性から解き放たれたときの喜びである。わたしが『』とよぶのは、そのようなはたらきを持つ不思議な表現世界のことである。」
「日本美術が共有するものーーその第一は見る人の好奇心に訴える奇抜な発想と斬新な意匠であり、視覚を楽しませ遊ばせるエンタテイメントの精神、ひとことでいえば『おもしろさ』を追求する心である。」(辻惟雄『奇想の図譜』より)

爆笑問題辻惟雄爆笑問題のニッポンの教養 異形のモノに美は宿る講談社,2008.2 P.34)

「奇想の図譜」についてもっと知りたくなる。つまりこのシリーズはあくまでもそのテーマへの案内役で、より深く知りたいと思ったら、ゲストの著書などに手を伸ばせばいいのだ。ちゃんと巻末に関連図書のブックガイドが掲載されている。ありがたい。読んでみよう。

日本のマンガがすごい理由?

ひとつ興味深かったのは、日本の美術は昔から「時間をいかに表現するか」に心が砕かれてきた、というくだり*2。西洋ではもともと空間を表現することがテーマだったのが、近現代になり時間に変わってきた。しかし日本は昔から空間より時間だったという。

辻 季節の移り変わりとか、時間の流れとか、流動する生命力とか、そういうものに興味があったんですね。
太田 北斎の絵を見ていると、躍動的ですよね。動きをパッととらえるっていう。
辻 人間にしろ、自然にしろ、動きとしてあらわすということがありますね。西洋絵画の題材には、「静物」があるでしょう。西洋では「静物」というと「still life」、つまり「死んだもの」という意味なんですよね。じっとして動かないもの。(略)だが、日本人はこんなものをあまり好まなかった。北斎のころになって西洋画の影響を受けて、やっと静物画が出てくるんですが、静物を描いても、北斎の絵にはどこか動きがあるんですよね。
太田 絵の中におさまりきれない時間の流れみたいなことが見えますね。瞬間を切り取っているんだけど、それがけっして死ではなくて、動きをとらえている感じがするんだよね。
爆笑問題辻惟雄爆笑問題のニッポンの教養 異形のモノに美は宿る講談社,2008.2 P.112-113)

この会話を受けて田中が「だから日本はアニメとかもすごいのかな」と言っているのだけれど、この場合、アニメよりもマンガと言ったほうがいいのかな、と思った。

辻 そうですね。動きをピタリと止めてしまうんじゃなくて、ずっと動きつづけているような錯覚を起こさせることがうまいですよ。
爆笑問題辻惟雄爆笑問題のニッポンの教養 異形のモノに美は宿る講談社,2008.2 P.113)

「日本美術では静物にも動きがある」なるほど確かにそうかもしれない。

「だけど愛してる」

それからもう一つ、印象に残ったのが「だけど愛していたことは確か」という辻先生の言葉。江戸時代の日本において錦絵は庶民が気軽に楽しんでいたものなので、それほどの価値を置いておらず、外国に陶磁器を輸出するときの包装紙として使った、というエピソードを受けての会話。「包装紙だったものが、いまじゃあ、たいへんな芸術品になっている」と。

太田 美術ということになると、もうとたんに堅苦しくなる。庶民がみんな「おもしろい、おもしろい」といってたのが、「美術でござい」ってなると、「とても西洋にはかないません」みたいになってしまう。でも、じつはここにすごい価値があるのに。
辻 そう。包装紙にしたりして気軽に扱いながらも、みんな、それを愛していたことは確かなんだよ。楽しんでいたことは確かなんだよ。それがアートという価値や観念の枠の中に入っちゃうと、ちょっとやりにくくなるんだよね。
太田 そうなんです。それでまたそこに画壇みたいな組織ができちゃうと、「これはいいけど、こんなものはダメ」みたいに、どんどん組織となじまないものは排除されていくようなところがあったりしますよね。(略)
爆笑問題辻惟雄爆笑問題のニッポンの教養 異形のモノに美は宿る講談社,2008.2 P.119)

これはまさに、この本の冒頭で「爆問学問のすすめ*3として太田光が述べているところの「言葉が思考を限定する」例だ。「美術」「芸術」然り、「学問」という言葉もまた然り。そう言われた途端に「わかりません、ごめんなさい」みたいに卑屈になってしまう。「わかる/わからない」の文脈で語られるようになってしまう。でもきっと、少なくとも「美術」「芸術」はわからなくてはならないものではなく、感じさえすればいいのだと思う。なにを感じるのもその人の自由で、それを思い思いに言えるような空気がもっとあればいいと思う。

「この世界は奇跡の集合体」

ところで、巻頭で高らかに宣言されている太田光の「爆問学問のすすめ*4という文章はとてもおもしろかった。「言葉とは煩わしいものである」「一つの感情を言葉にした時、その言葉に収まりきれないどれほどの感情が失われるのだろう」「言葉は思考を限定するが、その一方で言葉は思考の幅を広げる」「言葉を発し、言葉を受け入れることによって、人間の思考の世界はどこまでも広がっていく。我々は言葉を尽くせば尽くすほど、思考の力が増していくことを知っている」……

言葉の限界を知ると同時に、その可能性を信じている人の発する言葉は、信頼できる。

この世界は奇跡の集合体だ。そしてその奇跡を創ったのが、学問であり、だとすれば大学教授とは、奇跡を追求する人のはずだ。(略)
爆笑問題辻惟雄爆笑問題のニッポンの教養 異形のモノに美は宿る講談社,2008.2 P.6)

こんなに魅力的な学問、そして大学教授の定義を見たことがない。この「異形のモノに美は宿る」は、シリーズ13巻目。同シリーズのほかの本も読んでみよう。

*1:公式サイト http://www.nhk.or.jp/bakumon/

*2:P.111〜

*3:P.2〜

*4:P.2〜