「やりたいこと」にたどり着く近道

だれにとっても1日は24時間であり、すべての人間にとって等しく「時間は限られている」。そんな当り前のことに、かつては気づいてなかった。意識することがなかった。自分の時間の使い方を決めるのは、主に自分だったから。

意識が変わったのは、子どもが生まれてからだ。赤ちゃんとの生活というのはすなわち、自分の時間を自らの都合によって自由にコントロールできない、他者都合によって自分のスケジュールが決まるという状態だ。1日のなかで自由時間を持つことができるのかできないのか、もし持てたとしてもどの時間帯で、どのような状況下でもたらされるのか、まるで予想がつかない。赤ちゃんが眠りに落ちたいまこの瞬間から、いつ終わるかわからないけど多分1時間くらい、という具合で、こちらの都合などお構いなしに、時間は突然降ってくる*1

この「多分1時間くらい」の間に、いましかできない何をすべきか? 何をわたしはしたいのか?
そんな選択を日々繰り返しているうち、「いまやらなくてもいいこと」と「いま一番したいこと」をいつも突き詰めて考えておく癖がついた。その繰り返しが、いま自分がやりたい仕事をできていることにつながっているように感じる。そういう意味では、出産は「やりたいことにたどり着く近道」の一つになりうるんじゃないか。もし、出産もせず、時間が限られていることを意識しなかったら、目の前にある仕事を漫然とやり続けていただけだったかもしれない。自分から環境をガラッと変える勇気なんて、持てなかったかもしれない。

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仕事でもプライベートでも、なにか新しいことに誘われて、「それはいま自分がしたいことじゃない」「自分じゃなくてもいいことなんじゃ」と感じて断ることがある。基本的に小心者でネガティブちゃんのわたしは、そんな時、自分の狭量さを突きつけられているような気持ちになって、勝手にうじうじ悩んでしまう(すっぱり断ったくせに!)。たとえ自分がいまやりたいことじゃなかったとしても、やってみたら新しい世界が見えるかもしれないのに。自分の可能性を自分でつぶしちゃってるんじゃないの?! と。

けれども、自分が「しないこと」をハッキリとさせておくことの大切さというのが、このごろわかってきた。というよりも、無意識のうちにやっていたがよくわかっていなかったことを、他の人が文章にしているのを読んだおかげで、明確に意識できるようになった。それはたとえば本当に「したいこと」があるのなら、同時に「しないこと」も考えよう。(ヒトリゴト62) : ある編集者の気になるノートという記事だったり、http://cyblog.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=604http://cyblog.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=623という記事だった。

そして最近、内田樹氏の本でまた、こんな文章に出合った。

(略)経験的に言って、職業選択というのは「好きなことをやる」のではなく、「できないこと」「やりたくないこと」を消去していったはてに「残ったことをやる」ものだと私は考えている。
 つまり、はたから見て「好きなことをやっている」ように見える人間は、「好きなこと」がはっきりしている人間ではなく、「嫌いなこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。
 自分が何かを「やりたくない」「できない」という場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要だ。
「やりたくないこと」の言語化はむずかしい(「できないこと」の言語化はもっとむずかしい)。
「だって、たるいじゃんか」とか「きれーなんだよ、きれーなの。そゆの」とか言っていると一生ばかのままで終わってしまう。
 自分がなぜ、ある種の社会的活動について、嫌悪や脱力感を感じるか、ということを丁寧に言葉にしてゆく作業は自分の「個性」の輪郭を知るためのほとんど唯一の、きわめて有効な方法である(「ほとんど唯一の」というのは、もう一つ方法があるからなのであるが、これは「死ぬ前」にならないと分からない)。
子どもは判ってくれない 内田樹,2003,P.97-98)

内田氏は、「嫌いなもの」について語るときこそが、「自分について語る精密な語彙を獲得するチャンス」だと言っている。

孫引きになるが、“「知性」とは「自分が何を知らないのかということを知っていること」”*2という言葉もある。「できないこと」「やりたくないこと」「嫌いなこと」「知らないこと」目をそむけがちなそういう要素の一つひとつをていねいに言葉にしてみることこそが、前に進みたいときに省略してはいけない大切な過程なのかもしれない。

子どもは判ってくれない

子どもは判ってくれない

*1:たとえ突然であっても、降ってくるだけ幸運ともいえる。降ってこない日も少なくない。

*2:平川克美「二律背反としてのインキュベーション」『Espresso』第6号,2001年,9頁