「知ってる」という言葉が嫌い
佐治晴夫さんと養老孟司さんの対談本『「わかる」ことは「かわる」こと』を読んだ。
あるとき佐治さんは、高校で理科を担当している先生が集まった研修会で講演をしたのだそうだ。宇宙の始まりから人間に至るまでの話をし終えると、ある先生が佐治さんのもとに来たのだという。国立大学の理学部出身でドクターも持っている人だった。彼は佐治さんにこう言った。
「今日先生がお話されたようなことは、私は全部知っています」
国立大学のドクターを出ている人なのだからそれはそうでしょう、しかしそういう人が対象ではなかったので一般的な話をしたのだ、と佐治さんは話していた。
* * * *
「知ってる」という言葉が、わたしは嫌いだ。
なにかものごとを子どもに説明したとき、彼がよく言うのだ。
「しってる」と。
実際、知っていることもあるだろう。
でも多くは、「聞いたことがある」というだけで、ちゃんとは知らないことだ。
ほんの少し話の導入を聞いただけで「しってる!」と言うのは、 無邪気に自分の知識を主張しているだけかもしれないけれど、とっても損なことだと思うのだ。
「しってる!」と言ってしまうことで、それ以上知ることができなくなってしまうのだから。
* * * *
「先生の話を私は全部知っている」と言った彼に対し、佐治さんはこう言ったそうだ。
「あなたは宇宙のことをよく理解していらっしゃるんでしょうけれど、僕から言わせていただくと、宇宙のことを知るということは、宇宙のことをあなたが勉強して知ることによって、あなたの人生がどう変わったかということをもって、知る、ということなのです」
だから、
僕は「わかる」ということは「わ」と「か」を入れ替えて「かわる」ということだと思っています。
と。
「学ぶ・習うということは、自分が変わること」
「学んだことや習ったことは、そこで初めて理解するのであり、自分が変わらないのであれば何の意味もない」
対談の仕掛人にして司会者の的場美芳子さんは、佐治さんのお話を受けて、そんなふうに言った。
さらにそれを受けて、養老さんはこう続けた。
変わらないけど頭に入っているものを、ただの知識というんです。
もっと言えば、ただの知識じゃないものは、自分の中に入ったときに自分の行動を変えるということです。それはむしろ現実と僕は呼ぶ。もはや知識ではなくなって、その人にとっての現実に変換しているということです。
* * * *
ちょっと話は違うかもしれないけれど、この前観た、TVチャンピオンの「小学生漢字王選手権」を思い出した。そのなかで、パネルに書かれた難読単語にあたるモノを日光江戸村のどこかから借りてくるという、借り物競走があった。
「大蒜」
という漢字に目をつけた男の子が、まっすぐ八百屋に向かった。
「えーと、にんにく、にんにく…」
ところが彼は、「にんにく」と読めても、にんにくの実物を知らなかった。
「あれ? にんにくってどれだろう?」
迷っている隙に、後から来た女の子が、ピューッとにんにくを持って行ってしまった。
知識が自分のくらしとまったく結びついていない。 自分が生きているこの場所とは別の場所に置かれたままになってしまっている。 そんなふうに感じて、悲しくなった。
* * * *
なにか知識を得たとき、それを自分の身に引きつけて考えられると、すとんと腑に落ちるということがある。きっとそれは、知識が自分にとっての現実になった瞬間なのだろう。そして、腹に落ちたそのときに、「知る以前の自分」とは違う自分になっていると思うのだ。自分のなかでなにかがつながった瞬間、あの快感こそが、知ることの楽しさだと思う。
だから、子どもが「しってる!」と言うたびに、何度でも言う。
「知ってる、って言った瞬間に、なにも知ることができなくなってしまうよ。とってももったいないことだよ」
うるさいな、めんどくさいなと思われても、何度でも言うと思う。
「知ってる」という言葉が、わたしは嫌いだ。
- 作者: 養老孟司,佐治晴夫
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